ひと目(幸助)


幸助



思わず喉を吐いた言葉は何とも短絡的で、だが、思うところを率直に表した言葉だったと後になってから思った。

それはあまりに眩く、俺の狭苦しい世界からすれば、この世の者とは信じがたい程に柔らかな薫りを纏っていた。
甲冑を身に、土と火薬と生臭い血の匂いが立ち込める戦場にあって、凛として美しく、すらりとした面立ち。
慈愛に満ちた空気を携えたその人は、頭の先から爪先まで土埃りで汚れた俺にそっと一枚の手拭いを差し出してくれている。
俺ならば、手拭いなんてぐしゃぐしゃに丸めて懐にしまい、人になど貸せぬ代物に仕上げていそうだが、差し出されているそれは綺麗に折り畳まれ、染み一つ無い。
あるといえば、やたらと庶民的な染めが端に施されており、少しだけ色褪せているのが見て取れる。
白地に藍染の紋様。どこにでもあるような手拭いはさながら、俺の手とは比べ物にならぬ程滑らかな指先と、花弁を思わせる爪を一層、白く艶やかに際立たせる装飾品にも見えた。
滑らかと言っても女がもつ柔らかさではなく、ごつごつと骨張り、掌には豆の潰れた痕もある紛う事なき刀を奮う武士の手だが、健康的な肌の白さ、動き一つ取っても品がありたおやかで、戦場にあるにも関わらず春の平穏な麗らかさを思わせるその人に、俺は自身の稚拙な言葉を最後に暫し見とれてしまっていた。

間抜けさながらに口を開け、目を丸くして、手拭いを受け取ろうとした手すら明後日の方向にやる挙動不審な俺に呆れてしまったのか、その人は困った様に眉尻を下げ口角をゆっくりたゆませた。
そして、上質な羽箒を思わせる睫毛を薄く落として、更に眩しく暖かに微笑んでくれている。
おそらく、俺の動きを待ってくれているのだろう。

何か言わねば、そうだ、手拭いを受け取らなくては。 いつまでもこうしている訳にもいかないし、第一、このままでは印象を損なってしまう可能性もある。
もう既に損なっているかもしれないが、慌ただしく時間が過ぎて、疲れており、巧く思考が回らなかったとでも言えばいいだろう。
しかし、それだと戦に駆る男がなんたる腑抜けかと思われるやも知れないし、折角誉めてくれていたのに台無しにしてしまうのではないだろうか。

結局ぐるぐると、無駄に体裁を繕う事ばかり考えている内、全く動きも返しもしない俺を見かねてなのか、その人はちらりとも嫌な顔一つせず、先に続けてくれた。
俺と視線が合うように屈めてくれていた膝を崩し、器用に陣羽織を尻に敷いてしまわぬよう浮かせ、雑草が踏みしだかれて周囲の土と混ざり小汚なくなってしまった地べたに胡座をかいて座り、改めて俺の目を捉えてきた。
その弾み、甲冑が小気味善い音を立て、腰に差した太刀と打刀が掠れて砂利を少し引っ掻けているが、それ以外はとても静かで、表すなら、ふわり、というべきか。
至って平凡な座るという動きも、人によってはこうも優雅になるものなのだと、俺は初めて知った。

しっかりと同じ高さで見る、濃淡冴える瞳は陽を吸い込んだ部分が淡く胡桃色に光り、ほんのりと、それでいて瑞々しく艶やかな唇は朝露を浴びた淡色をした躑躅にも劣らぬ美しさで、俺は、その人に改めて、心底見とれた。

こんな人が、俺と同じ場所に居て、同じ空気を本当に吸っているのかさえ疑問に感じる。

周囲に取り巻く喧騒は相変わらずで、やれ勝鬨だやれ祝盃だ、と猛る男達の熱気が立ち込めているが、どうだろう―――背後を人が通り過ぎるだけでも微かに揺れる、やや癖がついた髪は射干玉のように艶がありたっぷりとして、それでいて綿毛のようでもあり、併せて、この笑顔である。

全くの異次元がこの場にぽっかり出来上がってしまっているような感覚だ。

その人は、軽く握った拳をなだらかな動作で両膝に乗せ、旋毛が見えるくらい深々と頭を垂れてきた。
そして、丁寧な動作に続くのは、話しかけられた時、耳に流れてきた甘やかで澄んだ身体に染み込んでくる、馴染む声。

「申し訳ない。真田殿と言葉を交わすのは初めてでしたな。否、失礼致し申した。拙者、加賀藩前田家家老、奥村助右衛門と申す者。此度の大勝利、真田殿の機転によるものと伺いました故、無礼を承知で参った次第。どうぞ、拙い物ではありますが、泥で汚れておりまする…お顔をお拭き下さい。」

改めて聞く声は、今まで耳にしてきたどんな音色よりも清涼感があり、だが、深みのある響きだった。
そう言えば、名前を伺っていなかったな…。落ち着いて思い出してみれば、確か聚楽第で、関白様より任を賜った際、前田利家殿の後ろに構えていた人だと気付いた。
あの時は余りの緊張で記憶が曖昧な所があるが、あの時もちらりと視線に捉えた瞬間、得も謂われぬ不思議な感情に見舞われた事もゆっくり思い出した。
もっと早く思い出せば良かったが、場所や状況、身にする物一つで印象が変わったりもする。
勿論、この場合は良い意味でだ。あの時は、もっと険しく、厳しい人にも見えた気がするし、何か気になるな、程度だった……と、思う。

抜けるような蒼天の下にあり、微笑みを携える奥村殿は人を魅了して虜にする力を秘めているのではないだろうか。

現に、俺はその力に繰り返し、飲まれている。


深々と下げられた頭と、目下であり、今は同盟を組んでいるにせよ、他藩の人間にも限り無く礼を尽くす姿勢に、若輩の分際である俺が何時までも呆けていてはそれこそ無礼と、あたふたと奥村殿の方へ向き直って頭を下げた。

「いや!此方こそ全く以て忝ない。手前、真田信繁と申す者…幸村と人には呼ばれております。此度の策は、前田慶次殿の妙案あっての成功ですし、ついてきてくれた供の功績でもあります。決して、手前だけの力には御座いませぬ…ですが、お褒め与り、光栄です。」

半ばやけくそ…付け焼き刃の案ではあったが、それも全ては前田殿や家来あっての事で、丸々、賛辞を受けるには腑に落ちない部分もあった。
正直、あのまま死ぬとも思っていただけに、こうして居られるのが奇跡と言っても過言ではないだろう。
謙遜をするわけではなく、本心からの思いを口にして、指先に付いていた僅かな汚れを気休めではあるが、下履に擦り付け、再度差し出してくれた手拭いを両手で受け取り、奥村殿が下げたよりも勢いよく、深く頭を垂れた。
すれば、別段可笑しな事も無かった筈なのだが、手拭いから手を離した奥村殿は俺に向かって笑いを堪えるように、口元を押さえているではないか。

もしかして、からかわれていたのだろうか。

そう俺が勘繰っていると、奥村殿は、失礼致します、と一言添え、笑みを絶やさぬまま自身の陣羽織の裾を右手でゆるりと掴み、俺の顔辺りまで伸ばしてきた。
鼻先に少し掛かる羽織は、淡く萠る新緑を彷彿とさせる爽やかな薫りがした。
きっと、これが奥村殿の薫りなんだろうと直ぐに悟ったが、どこまでこの人は、人を惹き付ける力をもっているんだろう。
まるで、ありとあらゆる“魅力”その物が服を纏ってしまっている様だ。
奥村殿の陣羽織は、装飾はあまり無く、茶麻で表は作られてあったが、宛がわれた裏地は肌触りの頗る良い綿で仕立てられており、触れた部分がやたらと擽ったかった。
何をされているのか、初めは理解出来なかったのだが、俺の額を撫で払った後、離れていく裏地を見て、何故奥村殿が笑っていたのかも、不可解な動作をしていたのか、合点がいった。
どうやら、頭を下げた際に、俺は勢いあまって地べたに額を当ててしまっていたらしい。
証拠に、奥村殿の陣羽織の裏には、俺の額を撫でるまでは無かった、真新しい土が付いていた。
自分に起きた事すら気付かないとは、俺はどうかしてしまったのだろうか。
気付いた俺を見る、奥村殿の首がこくりと浅く傾き、それに合わせて髪が揺れる。

「このような着古した羽織の裏を使い、触れたこと、重ねて申し訳ない。お嫌ではありませんでしたか。」

奥村殿の声色のせいか、嫌味の一つも感じさせない、柔らかな素振り。
手拭いは俺の手に収まってしまっているから、羽織を使う他に無かったのだろう。
一瞬、普通に素手を使えば良いだろうにとも思ったが、それは奥村殿の、心配りなんだろうと察した。

「ですが、羽織で土を払うなど…奥村殿が汚れてしまわれたではありませんか。それに、あの……武将として、羽織に不用意に汚れをつけるなど、将兵が見れば示しがつかぬのではありませんか。」
まだ額には先程の擽ったい感触が残っているが、それが余計に不甲斐ないやら、申し訳無いやら。 心配りを否定したい訳ではないのだが、どうにも言わずには居られなかった。
しどろもどろしながら、目を泳がせて言うと、奥村殿はより暖かに蕾が花開く瞬間を思わせる澄んだ笑顔で、こう、続けてくれた。
「逆に、武功を挙げた英雄が何時までも泥にまみれた上、更に額まで汚しては格好がつきますまい。それに、羽織の裏など、汚れたくらいで何になりましょう。」

払えば、ほら。と、目の前で二三、逆の手で振れば、土は直ぐにぱらぱらと取れてしまった。
出来た人とは、こんな人を言うのだろう、そうぼんやりと思い、小さく頷く。
俺は、視線を奥村殿の顔に戻し、静かに息をついて、改めて受け取った手拭いと心遣いに礼をした。

広げた手拭いは、やはり奥村殿の薫りが染み付いていて、顔に近付けるだけで無性に爽やかで穏やかな気持ちにしてくれた。
その薫りを堪能しつつ、ゆっくりと顔を拭く。




何度と無く見惚れ、形容し難い思いを駆り立てる奥村殿に、何故か懐かしさと、胸を燻らせる痛みを感じたのに気が付いたのは、随分と後になってからだった。