心苦しさと恋心(政助)


右に御座いますのは、私の描いたものを、重陽の黒住伴さんが広げ、小説にして下さった物になります。
いつもありがとうございます!ワーイ
政助



手に入らぬものなど、なかった。華美な着物を誂え、斬鉄の刀を打たせ、美しい女を侍らせ、美味い酒で口を濡らしてきた。
手に入らぬものなどなかった。しかしそれはただ己にそう言い聞かせて、本当に心から欲しておるものから目を背けてきただけのことであったのだ。
目の前で畏まり、美しくこうべを垂れて季節の挨拶を述べる男の髪を眺めて目を細める。欲しておるものに気づかねば手に入らずとも悔しくはないというのに、何故儂は気付いてしまったのであろう。

「…伊達殿」

顔をあげた男が、儂を呼ぶ。涼しい声が震わせた鼓膜は焼き切れんばかりに熱を持つ。実直な瞳に射られて、信頼されている重みと己の欲望のふたつが儂の中でぶつかり合い、目眩を引き起こした。

「伊達殿、」

片手で顔を覆うと、下座におった男は非礼を短く詫びたのち素早く駆け寄ってきた。草木のような、湧き水のような、何とも形容しがたいきれいな香りが鼻に届く。背中に置かれた手は暖かで、どこまでもやさしい。

「伊達殿、どこか、御体の具合が」

男は仕える主君でもなければ生きる藩さえも違う儂に、誠実で純粋な気遣いを見せる。あるいはそう見えるように演じているのかもしれぬ。しかし、儂の背を撫でる手は、失って久しい父の優しさと、とうに離れていった母の温もりを思い起こさせた。
手に入らぬものなどなかった、と思い続けて生きていくしかなかった。手にしていてもいずれは儂の手をすり抜けてしまうものなど、欲しいと思ってはいけないのだと、頑なに言い聞かせて今まで生きてきたのだ。

「伊達、……」

顔をあげ、その唇が動く様を見留めた刹那に、儂の胸の中で何かが崩れ落ちてしまった。押し止めておった衝動は息を吐く間さえ許すことなく儂を飲み込む。儂の手が伸びる、男の手首を掴む、男の瞳が丸く広がる、唇から儂の名が零れる、吐息同士が触れ合う。
何をしておるか、己でしっかり解っていた。この行為がこの男にどのような感情を抱かせ、儂との間にどれほどの距離を生むものか、唇が重なる瞬間までに理解は済んでおった。それでも止められなかった。儂の手からいずれ離れて、いや手にすることさえ叶わぬと解ってはいても、欲しくて欲しくて堪らなかった。
男の唇は、今まで触れたどの女の唇よりも甘かった。これを上回る柔らかな唇は、幾らでも居た。これを上回る滑らかさの唇も、やはり幾らでも居た。
だが口付けだけで、たかが唇と唇が触れ合っただけでこれほど胸が切なく締まり、目の奥が熱く痛んだのは、これが初めてであった。
男は、抵抗もせずにその澄んだ大河のような瞳をただ開いて、間近で儂を見つめておった。すぐにこの美しい顔が儂への嫌悪で歪むのだと思うと、背骨が根本から砕かれるような心地がした。せめて歪んでいく様子からは目を背けていたいと、儂は女々しく名残惜しい想いをどうにか捩じ伏せてその暖かな唇から離れた。
男の唇の感触は、離れても儂の唇に残っておった。もう二度ともたらされぬものであろうその甘さを閉じ込められぬものかと、儂は己の唇をきつく噛み締めた。

「……、」

ぴくりと、儂の手のなかで男の指が震えた。振り払われる前に儂から離したが、男の手は下りることもなく、そのまま空を柔らかに漂っておる。

「伊達殿」

呼ばれても顔をあげることが出来ぬ。理解していたとは言えど、欲しいと思った者が己への嫌悪で顔を歪める様子を見つめるのはひどく勇気が要った。

「伊達殿、…」

長く垂れている前髪の先に男の指が触れ、儂は全身が無様なほど震えた。しかし男の指はゆっくりと、まるで空を目指して持ち上がる百合のつぼみのようにのびる。
手のひらが綿のように儂の頬を包んだ。処刑を待つ罪人のような心持ちで顔をあげた先には嫌悪も、失望も、あらゆる負の感情のひとかけらさえも待ってはいなかった。
慈しむような眼差しで、男はただひとこと、静かに儂を気遣っただけである。
儂はこのような優しさを今まで知らなかった。同様に、このように残酷な仕打ちも身に受けたことはなかった。